陰徳を積む>そしてカント、夢窓禅師へ
つい最近、陰徳を積む、という言葉を知りました。
ごくカンタンにいうと、陰徳とはひとの陰となって善行をすることをいいます。
例えば、人知れず朝早く道路のお掃除をすることや、ひとが知らない間にお手洗い掃除をすることなんかがこれに当たります。
でも! 人知れず朝早く道路のお掃除をしても、それが露見してしまって「あのひとはすばらしいひとだ」なんて評価されてしまうと陰徳ではなくなってしまうそうです。ふ〜ん。
そして、陰徳を善行の「貯金」とする考え方もあって、このあたりになるとそもそもの陰徳という概念とは離れているような気がしなくもありません。
高校時代、倫理学の夏の課題でカントの道徳形而上学原論(どうとくけいじじょうがくげんろん)を読みました。
むずかしい訳文でよくわからなかったのですが「なにかいいことをしても"これはいいことだ"と思いながらやったら意味がないのよ」というような主旨の内容があったことを記憶しています。または、当時の私の解釈がそうだったのかもしれません。
これは後日知った夢窓疎石の「別無工夫」(べつにくふうなし)という言葉とどこかで通じていると思え、自分の行動指針のひとつの理想となっています。
著しく卑近な例かもしれませんが、キャンプ中のことを考えると、撤収時のテントのたたみ方が非常に理にかなっていたり、クッカー類の宿命として汚れがとれないままで移動せざるをえない場合もあるものの、出発時にできる限りの機転で汚れをとってあるなんてのも、パーティ(チーム)全体にとってはたいへんありがたい。こういうのが「別無工夫」の境地でからだに染みついたひとは、きっとどこでも欲しがられる人財になるのでしょうね。
条件が悪いときには、ことさらにこうした先をよんだ気配りと当たり前のことが当たり前にされていることのありがたさが身にしみます。
天気があまりにも安定していたりして条件がよすぎると、こうした当たり前のことを当たり前にすることの価値が見えにくいし、手を抜いてもいいくらいなので、参加者も主催者もよほど留意していないと「学び」の機会が少なくなってしまうきらいがありますね。
普段の生活においても、子どもも大人も、条件があまりにも整いすぎている環境の下では「学び」の機会が少なくなってしまう気がします。恵まれすぎていることは、酷な場合もあり得ると感じることもあります。
明日夜から9名の参加者様とともに熊野に向かいますが、聖地に赴くためでしょうか、こんなことを考えました。
イメージ連鎖で話を進めましたので、本来は意味深い各概念の本質とは異なるであろう解釈です。ご了承ください。
天気が良さそうです。
無事故で充実した活動にしてまいりたいと願っています。
写真は夢窓禅師書「別無工夫」