「死ぬ」ことについて考える

【死ぬかもしれないことを求める気持ちの真意は…】
昨年は生まれてはじめて骨折し、そして、生まれてはじめて全身麻酔手術を受けました。

骨折は痛く、不便で、費用もかさんで、時間もかかって、さんざんな体験でしたが、とても有意義なことでもありました。

それは、痛みや不自由さ、入院や全身麻酔という経験をした(している)ひとたちと、すくなからず体験の共有ができるようになったと思えるからです。

健康な状態というのは、ほんとうにありがたいものですね。

しかし、誤解をおそれずに率直に記すと、健康な状態が長く続くとありがたみが薄れて、その状態を不安定な状態にしたくなる気持ちが起きはじめる、というのが、いままでの自分の経験です。

たとえば山登りにしても、そうした気持ちが潜在的に働いていると思えることがあります。

表向きの気持ちとしては、きれいな景色をみたい、とか、仲間と自然のなかで同じ時間をすごしたい、とか。
そんな気軽で無邪気な動機で山登りの計画をしているようでも、そこに無意識になにか冒険的な要素を取り入れるひとは、意外に多いのではないでしょうか。
たとえば。
はじめて登る山を選択するのも、冒険的な要素が入っています。
登ったことがある山でも、違う季節に登るというのにも、冒険的な要素が入っています。

冒険の要素を含んだ行動をわざわざ計画するということは、もしかしたら「死ぬかもしれない」機会をみずから作って、それを克服することで「生きている」実感を得たいという衝動があるように感じます。

「死ぬかもしれない」と感じるレベルはそれこそ、百人百様です。
自分なんかはそのレベルがたぶん低く、たとえば、山歩きで「ここで落ちたらぜったい死ぬな」とか、自転車で夜行高速バスに抜かれるとき(夜行高速バスはもっとも運転が荒い傾向にあります)に「もし転けたら死ぬな」などと、よく考えます。きっとだれでもがそう考え、そしてもしかしたらすぐに忘れてしまうような場所でも、意外にその場所やそのときの感情をいつまでも記憶しているのです。

そんな性格だから、とくに山から家に帰ってくると、ホッとします。次の山のことをすぐ考えるタイプではありません。
布団のうえで寝られることをありがたい、と数日は思い続け、水やガスを自由に使って好きなときにお茶を飲んだり、ガラスや陶器の食器を使えることを「ぜいたくだなぁ」と思います。

【生き抜きたいのはひとも動物もおなじ】
今日、Earthlings(アースリングス) という映画を、野外塾がウェブで自動発刊している「日刊アウトドア新聞」(だいぶ精度がよくなり、10に1つくらいは興味深い情報が提供できるレベルになってきました。)で知り、youtubeでひととおり観てみました。

この映画は、ひとが生きていくうえで食べたり、着たり、楽しんだりするために、いかにほかの生き物を蹂躙(じゅうりん)しているのかを追ったドキュメンタリーです。

先に記したような自分自身の行動傾向や感覚からして、映像にショックを受けました。
このドキュメンタリーを構成している各々の映像のクレジットをよく見ると、20年くらい前だったりするのもあるので、今日(こんにち)ではぜひ改善されていてほしい、と願うほど残酷な映像もありました。

しかし、どう事態が改善されていようとも、私たちの生活が多くの生き物の犠牲によって成り立ち、そして多くの生き物に対して生殺与奪の暴権を振るいすぎているのは確かです。
もし、自分がなにか大きなちからによって生殺与奪を無慈悲に行使される立場だったら、と映像に出てくる動物たちと自分を思わず同一視しました。

この映画によって、生きていくうえで「自律」ということはきわめてたいせつな指針だと、鮮烈に再認識しました。
同時に、当たり前のことですが、ほかでもない自分に対してでも、必ずしも死は穏やかに訪れるとは限らないことに改めて戦慄しました。