神様は素朴で美しいところが好き。

近鉄・上之郷駅から至近の伊雑宮。
週末は家内の実家である三重県津市に行ってきました。
そこまで行くと、伊勢はもうすぐ。
毎回、実家訪問をすると伊勢へと足を伸ばします。

なかでもお気に入りは伊雑宮(いぞうぐう、またはいざわのみや)。
歴史的には非常に繊細な位置づけになる神社なので、そんな詳細はここでは記さないことにしましょう。
自分がここでお伝えしたいのは、私たちの祖先は素朴で美しいところに人智を超えた存在を「体感」したのではないか、と思うことについてです。

沖縄には御嶽(うたき)と呼ばれる神聖な場所があちこちに点在します。
そうしたところは、一部の例外を除いて特段なーんにもないところなのです。
南国特有のアダンやビロウが密生するまんなかにぽっかりと開いた空間だったり、琉球石灰岩のあいだをくぐるようにして抜けたところにある小空間だったり。
そうした清浄な場所に行くと、ただここちよい風が抜けていくだけで、とても満ち足りた気持ちになれます。

それと同じような感覚になるのが、伊雑宮です。
「なーんにもないのに、なんでもある」のだと思えるのが、こうした清浄なところにいるときの共通した気持ちです。

「みたまのふゆ」という言葉があります。
「恩頼」と書くだけでそう読むようです。
ネットで調べるとわかると思いますが、神様のご加護というような意味らしいです。

私があるひとからこの言葉について説明を受けて、とても納得できたことがあるので、おすそわけします。
「ひとは俗世のなかで生活することで魂の表面が知らず知らずのうちに傷ついてしまう。神様の前で素直な気持ちで祈ることでこの傷が癒えることをみたまのふゆという」というのです。
このことは自分が知る限り、どこにもでてこない説明なのですが、とても気に入っています。

自然と信仰は切っても切り離せません。
深入りするとあらぬ方向にいってしまいがち。またヘンな欲にとらわれてしまいがち。
だから、自分は常に「素朴で美しい」自然の姿にフォーカスするようにしています。
そこには理屈抜きに私たちを本来の姿に戻してくれるちからがあると思うからです。

「なにかこころ安らぐ景色や自然がある。」
そんなことをいつまでも大切にして、またどなたでもその気持ちを自分のセンサーとして頼りにしてもよいと考えます。