登る前には魅力的に見える木も…… |
もし事故がおきたらうらめしく見えることでしょう。 |
自分は、小さな頃に近所のお寺でよく楽しみました。
とはいっても、恐がりだったので、ちょっと登ったところにあるたっぷりした二股がお気に入りで、そこにまたがって太い幹に背中をゆだねる感覚が好きでした。
いま、子どもたちの木登り(道具を使わない素登り)は、それを見守る(あるいは「やっていいよ」「ダメ!」と選択できる)大人にとっては水遊びと同じくらいに「判断がむずかしい遊び」になっていると考えられます。
(そうした悩みを解決できるためのひとつの方法として、多くの道具と専門的な知識を使ったツリークライミングがありますが、これは私たちが楽しんだ素登りとは別モノと考えてよいでしょう。責任の所在も、安全も確保されているのですから。)
子どもたちにとって昔ながらの木登りは、なによりも身近な環境ですぐにできて、ひとりでもできて、木との一体感を味わえて、自分のいつもの目線とは違う風景を味わえるその魅力はほかに代わるものがないのですが、まさかのときの代償は水遊びと同様に大きいことは看過できません。
子どもが意識するかしないかは別として、ときとして骨折や障害、死亡の危険を伴うからです。
また、つぎのような課題もあることは確かです。
【責任が問われかねない範囲】
親御さん次第なのかもしれないのですが、子どもが木から落ちて大きなケガをした場合、たとえば公園の木で登ったり、私有地の木に登ったり、学校や園の木に登ったりしたときにその木の管理者の責任が問われることがあります。
「予見(可能)性」つまり事故が起こりうることが事前に認識されていたかどうか、予見可能であればその対処をしていたのかどうか、が問われる恐れがあるのです。
そもそも子どもたちに木登りさせてあげたい、と願って育てられた木(これからの時代、そういう木があってもいいですね!)はおそらくないでしょうから、管理者はたいへんですよね。
事故を起こさないためのサポートは、見守りがいちばんです。
登る前に、その自然条件をよく子どもたち自身に観察させて
- 登って大丈夫な木か?(柿の木やイチジク、桜などは折れやすいので不適当。)
- どこまでなら登れそうか? 下りてこられそうか?(枝振りや樹皮のようす、反射的に木から手を離してしまう原因になる毛虫などの害虫の有無をできるだけ詳細に確認。)
- 落ちる恐れがある木の根元はどうなっているか?(コンクリートであったり、段差があったりしたらとくに注意。)
これだけでも大人がいっしょにいてあげる意味があります。
登っている間は、自分の足許のようすによく留意しながらスポッティング(リンク先は2:28動画)してあげると万一のときにケガを軽減できるチャンスが増えます。
木登りは水遊びとおなじく、ほんとうは「遊びの伝承」がなによりも大切。
つまり、お兄ちゃんやお姉ちゃんがその木についてよく知っていて、「そこあぶないよ」とか「そこ足かけられるよ」という経験の口伝えがあるとよいのです。
小さな子どもたちのコミュニティが形成されづらくなってしまった現在、園や小学校で先生方のサポートの下、木登り遊びのコツと注意点が年上さんから年下さんへと伝えられる伝統ができるといいな、と密かに応援しています。
最後に…
徒然草のなかから「高名の木登り」について記されたサイトをリンクします。
→ こちら
木登りを見守る立場の人の真髄を、短文でとらえています。